大阪・京都旅行から一週間経った今、賢者タイムになった話
11/16~18の日程で大阪京都旅行へと行き、そこで無事童貞卒業を果たした(素人童貞になった)わけだが、どういうわけか、今になって賢者タイムになり、喪失感を感じているのだ。
大阪旅行から1週間経った今、なぜか賢者タイムで今世紀最大級の大鬱ビッグウェーブ到来しててすき
— なお (@BT_workout) 2021年11月23日
というわけで今世紀最大級の大鬱ビックウェーブ到来である。
体験自体は勿論良かった。ちゃんと時間内に終わらせることができたし、合計で32000円も溶かしたが、それ以上に良い経験ができたと思っている。ならばなぜ今になって賢者タイムに突入し、喪失感を感じているのか。
「飛田新地で2回もセックスをしてしまって、オレは彼女(≒愛)が欲しかったのか、それともただセックスしたいだけだったのか、全く分からなくなってしまった」
多分こういうことである。完全に自分を見失っている。
今回の旅行で初めて女性の温もりを感じ、性の悦びを感じた。しかし、そこに愛があるかと言われれば(オレはあったと思ってるけど)、実際は存在しないわけである。相手の女の子の名前が”あい”なので、もしかしたら愛(あい)があったのかもしれないけど。
「愛のないセックスは本当の意味でのセックスではないのだろうか?」
「オレの根源的な欲求は満たされたのだろうか?」
少なくとも自分の中で、三大欲求の一つである「性欲」という部分に関しては満たされた気がしている。元々結婚願望もないし、彼女が欲しいか?と聞かれればそこまで欲しいわけでもない。なので、今回の経験は満たされはすれど、喪失感などあるはずもないのだ。なのにこの喪失感。一体何を喪ったのだろうか?
おそらく、セックスをすることがなければ知ることがなかった”性の味”を知ってしまったことに原因があるのだろう。人間は手に入らなかったものより、喪ったものの価値を高く見積もる傾向にある。これを行動経済学の分野では保有効果と呼ぶ。
大阪での経験は、金銭の授受こそあるものの、一度は性の悦びを「保有」した。一度保有してしまったものだからこそ、今こうして時間が経ち、自身の手からその悦びが「喪われてしまった」と感じるわけである。これが今世紀最大級の大鬱ビックウェーブ到来のからくりである。
そして「オレは彼女が欲しかったのか?ただセックスしたかっただけなのか?」
これに関しては「そこに愛はあるんか?」ということで、愛の有無が焦点になるはずだ。旅行前は「愛なんかいらねえ!必要なのは穴だ!!」というカス発言をしていたオレだが、いざセックスをすると「愛いるわこれ」という気持ちも出てきているのである。セックスは愛を確かめるための手段なのか。それともセックスは目的なのだろうか。自分で問題提起しておきながら、彼女ができたことがないので”愛”というものが全く分からない。彼氏彼女持ちの皆さん、ぜひ教えてください。ということで、オレは今日も七沢みあでヌきます。さようなら。